iwapenの日記

60歳にして考古学を学びに大学に入りました。また、社会や政治についても思いの丈を発信してます。

レポート本文「縄文土器と日本文化~岡本太郎を介して考える~」

2018/12/28脱稿

レポート本文

縄文土器と日本文化~岡本太郎を介して考える~」

 かつて岡本太郎は、縄文土器を見て「いやったらしい美しさ」と表現し、さらに次のように語った。
「いったい、これがわれわれの祖先によって作られたものなのだろうか?これらはふつう考えられている、なごやかで繊細な日本の伝統とはまったくちがっています。むしろその反対物です。だから、じじつ、伝統主義者や趣味人たちにはあまり歓迎されないらしい。
たしかにそこには美の観念の断絶があるようです。一時は、これは現代日本人とは異なった人種によって作られた、別の系統の文化ではないか、と考える学者もあったくらいです。
弥生式土器や埴輪などには、現代に直結する、いわゆる日本的感覚がすなおに汲み取られます。だた、縄文式はまるで異質で、ただちにわれわれと結びつけては考えられない。」(『日本の伝統』知恵の森文庫版P74)
 つまり、縄文土器は、その後の日本列島を支配した様々な時代と比べて大きく異なった美的断絶を持ち、その次代の弥生式から現代日本までとまったく異質さを放っていると言うのだ。
 たしかに、縄文土器土偶を見ると、現代の日本人の感覚とはまったく乖離する感性を感じざるを得ない。とりわけ、火焔土器の口縁部に見られる実用において邪魔としか言いようのない過剰装飾は、無駄を排除した「わび」「さび」の文化とは対極にあるだろう。縄文式が足し算の美学とするなら、一般に言われる日本文化の特徴は引き算の美学だ。また、弥生式土器のまったく無機的で機能的なデザインと縄文式との間に「断絶」を感じるのも理解できる。しかし、「次代の弥生式から現代日本までは、あの奇妙にチンマリとおさまった形式が、一つの系統としてメンメンとつながっている。」(同上P75)とまで言われると、疑問が湧き上がってくる。
つまり、縄文時代弥生時代との断絶は明白で賛同するのだが、弥生時代から現代日本が同系統として一色に括る見立てに違和感を覚えるのだ。本当に、弥生以降、日本列島はそんなに一色・一系統なのだろうかと。以下、この疑問を基本にしながら、これまで学んだ日本美術史の淡い知識を掘り起こしつつ、自分なりに考えてみたいと思う。

今、私たちが日本文化と呼んでいるものはいつ頃、成立したのだろうか。よく聞く話は、室町期だ。畳の生活や床の間のある部屋、茶道や華道、そして書や庭をめでる文化がその代表だ。ただ、源氏物語などの文学作品や大和絵・絵巻物や平仮名などを考えると、平安時代の国風文化にこそ日本文化の始原を求めることになろう。ただ、日本文化と言えば、おそらくほとんどの人が真っ先に思い描くのが、さきほども触れた「わび」「さび」の文化。しかし、これは村田珠光にはじまり千利休で完成されたという茶の湯の世界の話で、桃山時代となる。つまり、日本文化を語るなら、この平安・室町・桃山時代の文化の実相を見る必要があるということになる。

では、これらの時代、縄文式の「こってりとして複雑な、いやったらしいほどたくましい美徳」(同上P75)とは対極の、したがって弥生式以降の「弱々しくまたひらったい、あきらめの情緒主義や形式」(同上P101)が一辺倒の文化しかなかったのだろうか?
まず、平安時代から見てみよう。平安時代国風文化の代表と言える大和絵は、『源氏物語絵巻』など、一見すると情緒的で形式ばった枠の中で描かれており、「ひらったい」とも言える。しかし、例えば、『伴大納言絵詞 』(出光美術館蔵)にある「応天門炎上」を見てみよう。応天門が炎上する最中、あえて落ち着き払った振りをする官吏たちの様子、興奮して大きな声でがなり合う様子、あわて喚き叫ぶ様子、さらには野次馬根性で駆けつけてきた連中の色めき立った様子など、リアルに描かれ、群集のざわめきや叫び声が今にも聞こえてきそうである。また、一部、雑踏の中で顔を上気させながら女性によからぬ行為を働く人物まで描かれている。本当に「いやったらしい」「たくましい」世界だ。
次に室町時代に始まる水墨画はどうだろう。水墨画は、枯山水を描いたものとして、よく日本的だと誤解されるが、元々は完ぺきな中国絵画のコピー文化だ。この画の世界は、一見、「わび」「さび」にも似た枯れた印象だが、そこに描かれる自然描写は、ダイナミックで立体的だ。そして、決して情緒主義でもない。むしろ、ある種、漢文の持つメリハリある力動観さえ感じる。例えば、雪舟の『四季山水図(山水長巻)』はどうか。大胆かつエッジの利いた岩や樹木の描写は、立体的で、まるでそれらが今にもドドドドーっと音を立てて動き出しそうな迫力だ。そんな背景の中をとぼとぼと歩く人物像は小さく弱々しく見えるが、しっかりと前を向いて歩を進めている。小さな一歩が積み重なって大自然の力に立ち向かっていく信念を心に秘めているようだ。ここに、「あきらめの情緒主義」は存在しない。また、長谷川等伯の『紙本墨画波濤図』(永観堂所蔵)は、直線的でダイナミックな岩礁と流麗で縄文の渦巻文を彷彿とさせる波の動的な表現は、これまた弱々しくもなく平板でもない。むしろ、こってりとして、たくましさが伝わってくる。
そして、「わび」「さび」を生み出した桃山文化の時代はどうか。この時代こそ、傾奇者が跋扈し、その傾奇者を取り入れた阿国歌舞伎が身分を超えて人々を惹きつけた。そもそもこうした傾奇者の存在が「こってりとして、いやったらしい」たくましさに溢れている。おそらく、当初、多くの人々は彼らの存在に対し、眉をひそめて見ていたであろうが、それでも徐々に社会の気風が彼らの増殖をもたらし、世間に受け入れられていった。例えば、傾奇者の姿は、『阿国歌舞伎図屏風』(京博所蔵)や『洛中洛外図屏風』(京博所蔵)、そして『豊国祭礼図屏風』(豊国神社所蔵)など種々の風俗画に登場する。『豊国祭礼図屏風』には、タケノコの被り物をした人物が登場してくるなど、権力者の意図など無関係にとことん楽しんでやろうという庶民の姿が描きこまれている。『花下遊楽図屏風』( 狩野長信 東博所蔵)では、多数の女性像が描かれているが、そこにはよく言われる日本女性の慎ましさなど欠片もなく、あっけらかんとした、むしろ妖艶な魅力を放ってさえいる。たとえば授乳をしながら笑う女性、胡坐を組みながら酒か茶の杯を傾け、色っぽい目つきで談笑する女性たち、また阿国と同じ格好をしながら腰をくねらせ踊る女性たち、いずれも逞しく生きる姿が、これまたダイナミックに描写されている。これらの絵は、現実の人間が傾奇者としてユニークなのだが、それをあえて描いてやろうとする作者の観念、そして実際に生き生きとした姿を浮かび上がらせる描写力は、作者自身が岡本太郎の言う日本文化の「弱々しくまたひらったい、あきらめの情緒主義や形式」を越えた地平に立っていることを示している。
以上、簡単な例示だが、弥生時代以降、日本文化がけっして「弱々しくまたひらったい、あきらめの情緒主義や形式」一系統ではないことが分かるだろう。

では、なぜ、弥生式はあのように「ひらったい」つまらない土器を作るようになったのだろうか。それは、大陸や半島から稲作と鉄器と国家システムを持った人々が大量渡来し、一気に列島を席巻したために、列島の東北あたりまで権力者・国家による統制経済・社会が構築されたからだろう。そんな中では、縄文時代のように粘土ひもを捏ね、手づくねで膨大な時間を費やして土器の文様を積み重ねていた時間は無くなり、むしろ、集団統制された稲作と戦争に追われて、個人がゆったりと土器づくりする暇もなく、ただ機能的でさえあれば十分という現代のような時間に追われた生活が支配したのだろう。私も岡本太郎と同じく、弥生土器には、現代のプレスチック製品にも似たような薄っぺらさを感じる。
また、古墳時代の埴輪、これこそ権力者の墓のための添え物にすぎず、しかも工人を大量に集め、大きな窯を作り、まさに手工業により大量生産された物なのである。当然、製作者の個性や自由度などなく、大王を取り巻く官僚たちの指示通りの規格品製造であった。だから、考古学者にとっては、埴輪の製造技術の微妙な違いからその生産地・窯が分かるほど画一的なのだ。そんなところに芸術性を求めること自体に無理があるというものである。
かたや、縄文時代は、社会を支配する特別な階級が存在せず、緩やかな共同体を形成し、土器は女性がゆったりと時間をかけて豊かな発想を注ぎ込んで作り出したもの。また国家とかの枠組みもなく、土器も土偶も黒曜石やアスファルトなどの特産物とともに、列島を大きく動いていた。つまり人々は列島全体の規模で自由に行き来し交易をしていた。そうした暮らしの中で、縄文土器は生まれた。まさに、自由と時間、豊かな暮らしが生み出した作品だ。

要するに、縄文時代桃山時代では、いずれも庶民が自由度を高め、自由な表現ができる社会となり、そこでは、「こってりとして複雑な、いやったらしいほどたくましい美徳」が生まれ、かたや弥生や古墳時代のように権力者による統制社会では、「弱々しくまたひらったい、あきらめの情緒主義や形式」がまかり通るということだ。
ただ、今回はカバーしていないが江戸期の元禄文化も含め、桃山文化のように、同じ時代でも両側面があるのは、当然、庶民生活の充実と権力者による統制の両面があるからだ。むしろ、そこから生まれる文化の多様性こそが、日本に限らず世界の普遍性だろう。そもそも、固定的な文化など存在しない。言葉がどんどん変化するように、文化も芸術も変化するもの。むしろ、変化こそ命だろう。「時よ止まれお前は美しい。」これは悪魔のささやきだ。稀代の芸術家、岡本太郎もやはり人の子であった。人間、何かを評価するとき、極端にその対立物を見つけたがるし、その対立物を単純化する。でも、そうすることで、自身をも硬直した思考停止に追い込んでいるのだ。
実は、縄文時代は、1万3千年の歴史を持つので、当然のことだが縄文土器も多様な様相を見せる。むしろ、火焔土器のような口縁部を盛り上げたり厚ぼったい隆線文で立体的な造形を施したりするのは、縄文中期しかも甲信越地域に限定される現象なのだ。むしろ、全体としては、縄文だけのわずかな装飾を施し、形も機能的な物が多い。近畿後期の縄文土器など、かすかに線刻文が見えるだけで、形もシンプルで遠目にはほとんど弥生土器と変わりない姿をしている。かたや晩期の東北を中心とした亀ヶ岡文化圏では、中世や近世の椀や壺かと見紛うほどの繊細な造形・線刻・色付けが施されている。しかも漆塗である。これだけ見ていると縄文土器もまた、岡本太郎が言う繊細な日本文化の特質を十分に備えていることになる。そもそも、時代や文化とはそうした多様性を包蔵しているものであろう。だからこそ時代も文化も変化する。現代も、同じことだと思う。

以上。
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