iwapenの日記

60歳にして考古学を学びに大学に入りました。また、社会や政治についても思いの丈を発信してます。

2021年1月8・9日 沖縄世界遺産視察旅行 沖縄レポート

沖縄レポート❶
沖縄について最初に食べたのがこれ。
ぜんざいです。
沖縄の気温も10度ほどで寒かったから、あったかくて甘いぜんざいは身体に滲みました^_^
と言うか、那覇空港から座喜味城跡まで車で真っ直ぐ向かったのはかいいけど、城跡周辺は住宅街で、あったのがこのぜんざい屋さんだけ。仕方なく、寒いしお昼は軽くでいいでしょうと入ったものの、メニューを見るとカキ氷ばかり。流石にカキ氷は無理。お店の人に聞いて温かいのもありますと言われ、ホッとして注文しました。

ところで、今は冬なのでこの普通のぜんざいもやってますが、写真に写ってるように、むしろ冬以外は、沖縄ではぜんざいと言えばかき氷にあんこをかけたものを言うようです。
僕たちが頂いた温かいぜんざいは、サブメニューだったんですが、大豆たっぷりに麦も入って、白玉も大きなのが二つ。おまけに甘さが控えめで京都の甘物屋なんかより余程上品な味。掘り出し物でした。まぁ、今回、入った他の店は全て味が優しく素材が引き立ってました。関西で食べる沖縄料理は味が変わってしまってますね。

座喜味城跡に行かれた方は、ぜひ、お試しください。ただし、冬です。
肝心の座喜味城跡のことは、この後で。
 
 
 
沖縄レポート❷
さて、沖縄の世界遺産とは、全て琉球王国のグスク、及びその関連遺産です。具体的には、①首里城跡、②園比屋武御嶽石門、③玉陵、④識名園、⑤斎場御嶽、⑥中城城跡、⑦座喜味城跡、⑧勝連城跡、⑨今帰仁城跡の9箇所です。今回は、1泊2日の時間的制約で⑧⑨は除外し、その他の7箇所はじっくり見てきました。

 そして、教授はICOMOS会員でもあり、各遺産の「保存」状態を確認してきました。世界遺産では、当初から各遺跡や建造物などのオーセンティシティ(真実性)が問題となっていました。特に日本のように木造建造物の場合、建造当初の「素材」がそのまま残ることは稀有で、どうしても新材を使っての「復原」が行われてきました。と言うより、日本の文化そのものが当初素材の保存より、素材を入れ替えつつ建物を維持することが重要で、またその修復の中で当初の建造技術の維持を図ってきました。
 でも、西洋では例えばパルテノン神殿のようなギリシャ時代の大理石の建造物は、決して素材を交換せず元々そこに残った素材で修復する事が大切とされてきました。
でも、それでは殆どの世界遺産の保存やましてや活用など不可能で、素材は入れ替えつつも形状や建築技術を保持しつつ修復する「復原」が大切にされるようになってきました。
 そこで、今回の視察も、それぞれの遺産がどのような形で保存されているのか、遺産としてのオーセンティシテイは如何程のものかを実際に見て確認することが、大きなテーマでした。とりわけ、現代の復元構造物で覆い隠されていた遺構が見える首里城跡は、今しか見る事ができないので必見でした。

 でも、僕自身がこの2日間で最も関心を持ったのは、首里城とその他のグスクの石垣の保存・復原のあり方でした。結論から言えば、オーセンティシテイとしては、中城城跡>座喜味城跡>首里城跡の順序です。この点、今帰仁城と勝連城を見る事ができなかったことが残念です。ただ、この2つを加えても、首里城跡が一番真実性に劣ることは変わらないでしょう。
 それは、首里城は復原ではなく復元であって、その他のグスクは復原だと言う事です。でも、それはやむを得ない事情からなので、僕は批判する気にはなれません。ただ、残念なだけです。
 長くなったので、この続きは次回に。 
                                         沖縄レポート❸
沖縄に出かけて、驚く事がありました。
それは、伊丹空港も飛行機の中も、現地の「観光地」となっている世界遺産エリアなども、全て、ガラガラだった事です。
 飛行機なんかは、中央列の4人がけシートはほぼゼロ。窓側3人席も、そのほとんどが窓横1席に一人座ってるだけ、しかも前後何席も空いてます。パッと見ても50人も乗っていない状態でした。大きなジェット機なのに飛ぶ度に赤字でしょうね。ちなみに、伊丹空港には、京都駅から高速バスで向かいましたが、行きは僕一人だけ。帰りも5人ほどでした。1300円ほどの料金を取るために、高速代、ガソリン、そして人件費(運転手だけでなくチケット販売や荷物整備などの方も)など、その10倍以上のコストをかけてるわけで、惨憺たるものです。飛行機などもっと大きな損害でしょうね。実際、欠便も沢山出ていました。
 そして、現地は、どのグスクも2、3人とか、斎場御嶽で10人前後、有名で広い首里城ですらパラパラでした。どのポイントでも出会うのが警備や案内をされているスタッフの方でした。昼食で沖縄そばを食べたイートコートも、食べている時は僕たち2人だけでした。
 レンタカーも、僕らを含めて2組だけ。泊まったホテルも、当初予約のホテルが宿泊客減少で閉店で、同系列のホテルに移されました。受付のお姉さんも嘆いてました。

 おかげでと言っては悪いですが、家の近所より三密回避できました。でも、それぞれの仕事に従事されている方々は、今後、大変な状況になっていくのでしょうね。ましてや、緊急事態宣言が出て、これからもっと厳しい状況になると思われます。コロナ禍、早く収まることを改めて願う次第です。                                                                                   沖縄レポート❹
首里城は復元であって復原ではない。しかもそれはやむを得ない、と書きましたが、その理由を述べます。
 沖縄戦の際、日本陸軍首里城の地下に総司令部を設けました。そのため、米軍は司令部に向けて徹底的に艦砲射撃を行い、木々も地形も原型を留めないほどの破壊で、建物も石垣もその殆どが消失しました。そして戦後も、首里城の敷地は、今回初めて知りましたが、琉球大学が建造されたので、一時は、誰が見ても首里城だなんてこともわからない状態でした。こうして、後ろから3枚目の写真のように、本来の石垣は下の方にわずかに残る明らかに積み方も違うところです。しかも、こんな昔の石垣が見えるところもほんのわずかです。

1972年、沖縄の本土復帰と共に、戦災文化財の復元推進がなされましたが、琉球大学の移転は1979年、それまでは、守礼門など一部の再建が行われただけでした。
 正殿を含めた本格的な復元事業が始まるのは1980年代半ば以降。1986年になってようやく国営沖縄記念公園首里城地区の整備が閣議決定されました。
 ところが、もうその頃には、元々の首里城がどのような建物だったか知る人は殆どおらず、何より消失前の首里城の設計図や画像は残されていなかったのです。結局、一部の学者の歴史考証で、1992年の復元にこぎつけたのです。
 こうした事情で、首里城は復原とは言えず、あくまで学問的想像力で復元されたものなのです。しかもそれは戦争によって齎されたことでした。
その点、座喜味城跡や中城城跡は、そうした戦災による破壊は首里城ほどではなく、綺麗な流線形の城壁は、15世紀前後に作られた姿が修復や復元を経つつ残されてきました。

そんな苦労をして戦後復元した首里城正殿などは、一昨年の火災で焼失しました。今は、写真にあるように、焼け落ちた瓦や屋根に飾れていた龍などの残骸が剥き出しでした。建物の礎石も熱で割れてました。痛ましい姿です。でも、元々、首里城は戦争で徹底破壊されたことが、今回の火災で見つめ直す事ができます。そして、世界遺産としては、そもそも地下遺構や一部城壁なので今回の火災で首里城世界遺産登録わ外されることはありません。

おそらく県も国も正殿などの建物を早急に復元するでしょう。でも、僕としては、できれば、床面は全面的に透明な強化ガラス張りにして、今回剥き出しになった地面やその下の地下遺構などが見学できるような再建を望みます。戦争や火災で首里城が跡形も無く破壊されてきた歴史を人々の記憶に刻む意味でも、必要なことだと思います。首里城のオーセンティシテイは、決して、昔通りの建物を本物らしく作り直すことではないように思います。
沖縄レポート❺
何度も名前の出てきた中城城跡と座喜味城跡について書きます。写真は、前半の6枚が座喜味(ざきみ)城跡、後半が中城(なかぐすく)城跡です。
どちらも琉球王国独特の曲線的な城壁が美しいです。まず、一見してアーチ式のダムを思い浮かべます。これは、実際に、山頂部の起伏の激しい土地の上に構築されているので壁の倒壊を防ぐために曲線的になったそうです。ダムと似てくるのも当然ですね。また、同じように山の稜線に造られた万里の長城も同じように蛇が這うような曲線的な形状ですよね。いずれも合理的計算の結果です。

また、両グスク共にアーチ型の門が見えます。これは日本本土には見られない琉球王国独特の形状です。座喜味城跡のアーチ型門は沖縄最古で、しかもかなり正確に原型が復原できてるようです。

なお、中城城の城壁は、最も高度な積み石技術で造られたとされており、幕末にペリーが琉球王国にやってきた時、このグスクを視察し、その高度な石積み技術に驚嘆したと言われています。

ただ、座喜味城跡は、その軍事上有益な位置から、戦中は日本軍の高射砲基地として、戦後も米軍のレーダー基地として長らく利用されたために、かなり遺構が破壊されたようです。
かたや、中城城跡は、戦前に役所の建物が建てられ戦災で焼失したということで、沖縄のグスクの中で最も良く遺構が残っているとされています。ですから、石積み技術も、14世紀と15世紀以降とで変化するのですが、このグスクでは3種の技法が全て見られます。僕達が訪れた日も、15世紀の壁を修復中に、その背後から14世紀の壁が綺麗に出てきたということで、両方が同時に見えていました。写真にも一つ一つ石を運び出すクレーン車が見えます。長い年月、破壊されずに残されてきた訳です。

沖縄に行かれたら、首里城だけでなく、この二つのグスクにもぜひ足を運んでください。僕は、いつか今帰仁城と勝連城に行きたいと思います。
 
 
 

沖縄レポート❻
さて、グスクは城という漢字が当てられることもあり、また城壁が残る現況から、どうしても戦いの場、防衛拠点という軍事的性格をイメージしがちですが、それは三山時代とか、第一次尚王権時代の戦乱が絶えない時代でのことです。
その点では、日本本土の戦国時代が15.、16世紀となり、石垣の城はその終わり頃ですので、沖縄の石垣を使った城郭は、本土より100年早く現れ発達したことになります。

それはさておき、では城と違うグスクの役割とは何でしょうか?
グスク内には「御嶽(うたき)」「遙拝所」と呼ばれる信仰の場所が必ず備わり、現在でもその場所で祈りを捧げる人がおられるくらいです。首里城の中にもあちこちに、王や王に仕える人々が遥拝する御嶽が存在します。
しかも、琉球王国では、もちろん王様が権力を握っているのですが、王様と対等もしくはそれ以上の力を持った存在が聞得大君(きこえおおきみ)と言われる女性の祭祀女官です。この女官の就任は、首里城内ではなく、斎場御嶽(せーふぁうたき)という沖縄全体の聖地に丸々1日かけて歩いて、そこで行われます。しかも、毎年、そこまで出かけて祈りを捧げます。王様もそれに帯同しなければなりません。

琉球王国は、政祭一致の国家だったのです。
実際に見てきた中城城跡では、そこかしこに御嶽があり、祈りの場である事がわかります。聖なる井戸もありました。
私たちは、グスクのような建造物を見ると近代的な合理的精神で、軍事目的とかの近代的理由を真っ先に思い浮かべますが、古代や中世の人々にとっては、神を祀る祭祀こそが暮らしの中心で、国家でさえ神の僕でした。こんなこと、西洋のキリスト教を見ればわかることですね。
琉球王国もそのような祭祀が大切な国家で、むしろその聖なる場を守るためだからこそあれだけのグスクを作る事ができたのでしょう。

 

 

沖縄レポート❼
さて、その御嶽(うたき)という祈りの場、神を祀る場の最も最高位の場は、前回も書いたように斎場御嶽です。これも世界遺産であり、むしろこの斎場御嶽が軸となって政祭一致の琉球王国の関連遺産としてほとんどが原型の残らない首里城跡も、跡地として認定されたんだと思います。これは、僕の主観ですが。
それだけ斎場御嶽の持つ歴史的文化的価値は大きいと思います。

斎場御嶽は、琉球王国創世神アマミキヨ」が作ったといわれる琉球王国最高の聖地です。実際に現地を訪れて、これだけのところなら誰であれ、霊的な力をイメージするだろう実感しました。また、真東に海が広がり、その先にイザイホーで有名な神の島久高島の真っ平らの島影が見えます。当日、曇天で時々雨がぱらつくなか、その東の海を見ていると、雲が楕円形に割れて、そこからいきなり陽光が差し込み海面がキラキラと輝きました。また、その楕円形の周囲には、雲間からレーザー光線のような光が海に降り注ぎました。こんな光景を眺めたら、思わず手を合わせて、この海の先にニライカナイと言われる別世界があるだろうと想像してしまうでしょう。
そして、斎場御嶽の中心は20m前後の石灰岩の巨岩であり、そこに形成される鍾乳石やガマと言われる穴や、巨岩と巨岩がもたれ合うようにしてできた人工的に見える直角三角形の隙間、そしてそれらを包み込む森。まさに聖地です。これらが全く大昔のまま大切に守られて残されてきました。そして、今もなお、沖縄の人々の祈りの場となっています。
その他の世界遺産が人工物であるのに対して、ここは自然の造形です。でも、自然遺産ではありません。あくまで文化遺産なのです。
那覇から遠くなかなか行きにくい場所ですが、ぜひ訪れて見ることをお勧めします。近くの駐車場を兼ねたチケット販売所では必ずビデオを見ましょう。とても良くできたか民俗学的作品です。

 

沖縄レポート❽番外編
今回の、我が教授の沖縄世界遺産視察旅行に同行するにあたって、事前に読んだ本が写真の2冊です。年表は外間氏の著書からで、いかに日本列島本土と沖縄の歴史が違うか一目でわかります。

①沖縄の歴史を書いている本はそんなに多くなくて、外間守善氏の『沖縄の歴史と文化』(1986中公新書)は、やはりもはや現代の古典です。文体も優しく、歴史的叙述だけでなく、各時代に息づいた人々の営為が描かれています。とりわけ民俗誌的な部分はこの時代の学者だからこそ古老に話を聞き、古き祭祀を直接に取材した資料に裏付けられているので、現代の学者には書けないオリジナリティがあります。ぜひ一読をお勧めします。
この書では基礎から多くを学びました。そんな中であえて一つエピソード的なことを紹介すると、言語学的には、「りゅうきゅう」は外来の言葉で、「おきなわ」こそが固有の言葉だと言うのです。僕達は逆のイメージですよね。
もう少し詳しく言えば、日本語を祖語とする沖縄古語は当然アルタイ諸語の仲間で、日本語や朝鮮語などと共にrを語頭持つ単語はないので、「りゅうきゆう」などと言う呼称は沖縄固有の言葉ではないと言うのです。
逆に、沖縄の『おもしろそうし』には、「おきなは」と言う言葉が多く出てき、それは大きい場所の意味で、南西諸島の中で最大の沖縄本島を指す言葉だと言うのです。これは、まさに蒙を開く一節でした。

また、筆者によると、1879年の琉球処分のとき、清国との交渉で、沖縄諸島を分離して、宮古八重山諸島を清国に譲る案を示したと言うのです。日本の国益のために辺境沖縄を切り捨てたのです。これは、戦後、敗戦にあたって進駐軍マッカーサーに対し、昭和天皇が自身の天皇の地位存続と引き換えに、沖縄を軍事基地として半永久的に譲渡するという「交渉」をし、結果、いまだに日本全土の米軍基地の75%が沖縄に集中していることと連動しています。日本本土は常に沖縄を政治の道具として使ってきたんですね。
実際、沖縄で最も広がりのある稲作などの最適地が嘉手納基地に占拠されている実情は、この周辺を車で走れば分かります。とんでもなく広い空間を外国軍に支配されています。悲しい現実です。

②また、藤本強氏の著書『もう二つの日本文化』(1988東京大学出版会)は、北海道と沖縄の先史時代からの歴史を描いており、この日本列島の両辺境の歴史を書ける人は多くありませんので、とても貴重です。
そして、藤本氏の一言に僕は驚きました。つまり、列島本土で栄えた縄文時代と並行する沖縄の貝塚時代には、「狩猟的な要素を示す道具が少ないことと呪術的な要素を示す物が見られない」という指摘でした。
なぜなら、これまでのレポートで書いてきたように、琉球王国の時代の沖縄は、御嶽という祈りの場が聖地として大切にされ、今もその伝統が息づいています。それは、琉球王国が政祭一致の国家であると共に、それは古来の民間の祭祀を国家が吸収することで国家の正統性を担保したと考えるからです。つまり、斎場御嶽を軸とする信仰は古来からのものだというのが私の思いです。
ところが、その沖縄で、日本列島の縄文時代全期間を通して大切にされた土偶や石棒などの祭祀道具が、一切出土しないというのです。あれだけ御嶽祭祀を大切にした琉球王国さらに現代も沖縄に引き続く祭りの文化と、全く祭祀的遺物を持たない先史時代の沖縄との断絶が理解できないからです。元は同じ人々のはずです。この断絶をどう理解するか、今後の課題です。