iwapenの日記

60歳にして考古学を学びに大学に入りました。また、社会や政治についても思いの丈を発信してます。

明治維新とは何だったのか

明治時代についての学びのまとめ

2020.12.25 岩崎孝次

明治維新は、以下の4領域における社会変革であった。

しかも、➀から④がほぼその順序で進められていった。

天皇現人神のイデオロギー確立

統治機構•法制度確立

③警察・軍隊の確立

④財政・経済基盤の確立。

なお、➀は、岩倉具視が中心。②は、伊藤博文が中心。③は山県有朋がほぼ独壇場。④は、山県有朋が背後で操る形で松方正義が推進した。

 

天皇現人神イデオロギーの確立(神祇官神仏分離・大教宣布)

 1867年10月に大政奉還がなされるや、明治新政府が同月真っ先に行ったことは、神祇官太政大臣など、まさに古代律令制国家の官僚組織の「再興」であった。そして、この方針のもとに翌1868年1月に神祇事務科が設置され、その半月後の2月には神祇事務局と改組された。これは、中央政府八局制が整備される中、神祇事務局が首位となり、以下、内国局・外国局・軍防局・会計局・刑法局・制度局が設置された。神祇事務局の最初の大きな仕事が、同年3月の神仏分離令であった。これは新政府の最高行政官であ太政官命令として布告された。国家を上げての国民への命令である。

 その後、1869年3月には東京遷都が挙行。明治天皇は、古代持統天皇以後、天皇として初めての伊勢神宮に参拝した。明治神宮は、現人神の天皇最高神天照大神との神格対等として扱った。同年6月、官制の大改革が実施。大宝律令にならい、神祇官太政官の二官を置き、神祇官を最高位とした。そして太政官の下に、民部・宮内・大蔵・外務・兵部・刑部の6省を置き、職名もカミ(長官)・スケ(次官)・ジョウ(判官)・サカン(主典)の四等官制を復活させた。まさに、古代飛鳥朝の復活である。

ただし、神祇官職務には、古代になかった職掌監宣教が加えられた。これは、国民を天皇天照大神に繋がる現人神として崇め信仰させる教化(大教)を役職とした。そして、皇居内には神殿を新設し、「祭政一致、億兆同心」「惟神の大道を宣揚すべき」「天下に布教をせしむ」とする大教宣布の詔が発せられた。

 以上のような、経緯で明治新政府はスタートした。ここに見られるのは、行政組織や財政基盤の整備などではなく、何より、現人神天皇を奉る国家神道の確立を急ぎ、天皇の宗教的権威でもって、旧藩主や士族もふくめて全国民を新政府に精神的に従属させることを第一の仕事としたということだ。明治新政府の改革は、「億兆同心」となって「惟神の大道」を突き進むという宗教的精神主義から始まったのである。統治とは、天皇の神格化によって国民を精神的に国家に服属させること、これが明治政府の根本的本質である。明治政府を語るとき、この根本を忘れて近代国家だの、果ては革命だのと言うのは、大きな間違いである。以下、すべての「改革」がこの天皇を神とする宗教的精神主義を軸に進められていき、果ては、その宗教的精神主義によって、世界を相手に無謀な戦争に突き進み、国家滅亡の危機たる大敗戦を招来したのである。

 

統治機構•法制度確立(大日本帝国憲法帝国議会と参議・枢密院)

 ここでの軸は、大日本帝国憲法の制定である。少なくとも憲法制定は、明治政府の内在的な衝動ではなく、あくまで欧米列強への近代化粉飾の一端にすぎない。しかし、大久保や岩倉や木戸ら初期政府首脳が2年間も日本を留守にし欧米列強国を視察したことで、彼らは、欧米列強国の政治・法制度はもちろん、技術力・生産力、経済システム、さらには思想や文化など、実見し学んだ。そこで、欧米列強と日本の格差を実感し、欧米列強に一等国として認めてもらうには憲法が不可欠と学び、古色蒼然としていた初期に比べて、より近代的な国家建設に向かうことになった。

 しかし、その国家建設は、あくまで明治政府を構成する薩長旧士族らの権力者としての利権と権力の専横が主目的であった。まずは、単にクーデター的に旧幕府・旧藩主権力を簒奪したにすぎない大久保ら新政府要人らは、参議というポストで自らの立場を擬態し、やがて内務卿や大蔵卿など尤もらしい地位を作り、さらに華族制度を復活し西欧風に爵位を設定し、元々足軽などにすぎなかった者たちが侯爵や子爵になっていった。

 そして、議会制度など考えもしなかった連中であるが、先程の欧米視察もあり、また自由民権運動の圧力もあり、帝国議会を開くことにする。しかし、伊藤ら中央政府を牛耳る連中は、この議会を有名無実化し、当初の権力者の専制を維持することに奔走した。伊藤らの当初の案(夏島草案)では、議会には天皇への上奏権・政府への質問権・法案の発議権・請願を受理する権限などもなかった。山県有朋は、憲法制定前に地方議会制度の改悪に乗り出し、一万円以上の地租を納める第一級選挙人(大地主・財産家)だけで議会の3分の1を占めるようにし、地方を国家統制できるようにした。国会議員もそれにならって、より多い地租を治める階層だけの議会とした。さらに、非選出の貴族院を設け、これは皇族や華族によって構成され衆議院と同格とした。これによって、帝国議会は、金持ち・大地主・華族ら特権身分の巣窟と化した。明治議会を考えるとき、この議員の基本構成を無視してはならない。こうした議員構成を考えれば、民主主義代議制システムだなどとは到底言えない実情である。

 加えて、実際の帝国議会では、天皇大権が大いに利用された。のちに野党勢力が大きくなる中でも、政府は事あるごとに天皇詔勅を発し、議会に議論すらさせなかった。天皇大権にたいし、議会は全く機能することができなかったことも、亡国の侵略戦争を加速させた。

 

 さて、この天皇大権と憲法の関係であるが、やはり帝国憲法制定時にも大いに問題になった。民権運動の影響もあり、憲法「民権の保護」か「君権の強化」かで揺れる部分もあったが、基本において「民権の保護」は天皇より与えられた貧弱な恩寵的な「臣民の権利」でしかなかったし、「君権の強化」こそは、この帝国憲法によってこの上なく高められたのである。

そもそも朕が「祖宗に承りし大権に依って」臣民に対し、改正不要の「不磨の大典」として、つまり欽定憲法として発布されたこと。「天皇は元首にして統治権を総攬」し、「帝国議会の協賛」を前提とするも「立法権を行う」とし、三権分立などありえないこと。「天皇は陸海軍を統帥す」にとどまらず「天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む」とし、軍備全権を掌握すること。そして、このように独裁的に「万世一系天皇が統治する」とするも、その「天皇は神聖ニシテ侵すべからず」として、天皇大権を立憲的に規制する発想が崩壊していること。

こうした天皇不可侵・全権独占は、権力の専横を縛る立憲主義を殊とする近代憲法とは全く真逆の天皇独裁憲法であるとともに、その天皇を輔弼する政府に青天井の権力を与えてしまったのである。つまり、大日本帝国憲法こそは、国家の暴走をもたらした元凶なのである。

 

③警察・軍隊の確立(軍人勅諭・内偵・特高

明治政府は、現人神天皇イデオロギーを軸に国民を精神的に支配し、さらに、大日本帝国憲法を軸とした行政・法制度によって、あらゆるチャンネルでの民衆の国家への異議申し立てを遮断した。しかし、それだけでは、狭隘な精神を持つ山県有朋は、枕を高くして眠れず、あらゆる手段を講じて、民権運動の広がりを阻止し弾圧し抹殺すべく暗躍する。

具体的には、そもそも西南戦争で勝利を収めた農民兵の西欧式訓練の強化では、明治当初導入した騎兵を重視したフランス式から、集団歩兵戦を重視したプロイセンに切り替えた。これによって、兵士はまさに戦場の駒となった。

加えて、山県は兵士の精神を重んじた。そのために西周の知識を利用し、兵士への訓戒となるべき軍人勅諭を練り上げた。山県が到達したのは「鴻毛より軽し」とする兵士からの徹底した人権意識の排除であった。これは、民権運動の基盤が当初不平士族の反乱から生じたのに対し、地租改正などによって農民の不満を吸収する形で民権運動の組織基盤が農村に移行するにともなって、その農村から供給されてくる兵士に民権思想が混入することを恐れたからだ。その意味でも、山県は、秩父事件など、あえて農民兵士を投入し徹底的に軍事制圧した。

また、警察組織の充実を常に心がけ、その中で内偵の重要性に気づく。民権運動の渦中に内偵を忍び込ませ、さらに運動の過激化を促進させ、そこで弾圧をする。これが山県のやり方だった。その為には、大坂事件のように、10年の刑期で入所していたヤクザの頭目を釈放しそのヤクザ組織の情報網を利用して、朝鮮半島に向かいクーデターを企てようとしていた大井憲太郎ら民権派の生き残りを一網打尽にした。その成果を喜んだ山県は、警察組織内部に政治犯捜査の独立を模索する。やがて特高とされる国事犯・思想犯を予防的に捜査する特別警察制度を創設する。日本は、この特高治安維持法によって、物言えぬ社会・戦争に全面協力する国民が形成されたことを思えば、山県の業績は計り知れないものがある。

 

愛国主義天皇主義で権力の正当化 

さらに天皇大権。利用して警察軍隊機構で弾圧。さらに天皇家の財政基盤作りと、とりわけ松下デフレ政策と軍拡の為の増税と、それによる農村破壊・民権運動潰し

 

④財政・経済基盤の確立。(松方デフレ:民権潰し、寄生地主・財閥形成)

 最後に、経済的な分野での国家形成については、何より重要なのは松方デフレとも言われる事案である。大隈による放漫財政以後、日本はインフレに苦しむことなる。それは、基本的に地租改正による貨幣経済への全面的な依拠があり、さらに生糸などの輸出軽工業の成長による好景気による。しかし、日本は鉄道や鉱山など重工業部門ではほとんど西洋の技術者と輸入品に頼ってきた。そのために保有金・銀の目減りは甚だしく、日本国紙幣の兌換率は1対1.7程度となり、ますます銀貨が暴落することになった。そこで、大隈に代わった松方正義大蔵卿は、市中の紙幣を回収し焼却することで、金余り状況を打開しインフレを是正しようとした。これは、政府による積極的なデフレ政策である。

デフレとなれば、物が安くなり売っても儲からなくなる。これには、農村が大打撃を受けた。米の暴落である。また、生糸産業も大暴落する。そこへ加えて、国家財政の健全化としての地租大増税。これによって、明治17年(1884)頃には、多くの弱小農民は土地を手放し、小作となった。また、同じ農村では、コメと家内制工業で儲けていた民権派豪農・大地主が没落する。かたや、同じ地主でも没落農民に金を貸し貸金業で儲けていた大地主は、借金のかたに農地を買いたたき小作に耕させて儲ける寄生地主となり、さらに余った貨幣を銀行株を買うなどし、金融資本へと発展していった。

 さて、この松方デフレと大増税、仕掛け人は山県有朋であった。彼の目的は、あくまで民権運動潰しと軍拡。なぜ松方デフレと繋がるのか。一つは、民権派地主・豪農の没落によって、民権運動の財政基盤を破壊することができたこと。民権派豪農は、その大きな屋敷をアジトとし潤沢な資金を活動資金とするなど、これまで民権活動家に惜しげもなく捧げてきた。加えて、自ら開明的な思想を持ち、ルソー「民約論」を読んだりと、家業そっちのけで民権運動に打ち込んでいた。それが、松方デフレと大増税で経済基盤を奪われたのだ。これは、松本清張色川大吉が指摘するように山県と松方が意図して行ったものであった。

もう一つは、松方デフレで貨幣の兌換率が1対1になったことと大増税で国家の財布は大いに潤った。それは、そもそも征韓論を出立とし海外侵略を夢見る山県にとって不可欠なことだった。まだ当時の日本は、最新の軍艦のすべてを西欧から購入していた。海外派兵にはなんとしても最新鋭の多数の軍艦が不可欠。潤った国家財政で、日本は一気に大軍拡へと走る。10年後(1894)、日本は日清戦争に突入する。

山県にすれば、松方デフレと大増税は、大嫌いな民権運動潰しと、恋焦がれた軍艦大増設の両取りの目論見であり結果であった。

なお、この松方デフレは、他方で、三井・三菱・住友などの巨大産業資本を育てることになった。あらゆるものが安くなる中、政府は、鉱山や工場や造船所など国有資産を一気に安値で払い下げする。こうして、三池炭鉱などで大儲けする「鉱山の三井」、三菱重工業の核となる「造船の三菱」の基盤が出来上がった。

政府によって土地も金も吸い上げられた弱小農民が小作農に没落し娘を売り渡す世情の中、戦中社会を経済的に支配し続けた寄生大地主と巨大財閥がこうして政府によって生み出されていったのである。

 

自由民権運動について

さて、こうした政府に対して、民権運動はどれだけの力を発揮しえたのであろうか。

そもそも民権派活動家は、その多くが尊王攘夷征韓論侵略主義の士族であり、愛国主義天皇主義に縛られ、民権の内実化すなわち天賦人権・国民主権など最後まで理解できなかった。自由党の当初の中核が、板垣退助後藤象二郎を軸とする土佐立志会で占められていたことでも、そのことは明らかだろう。板垣退助など、征韓論で西郷と共に政権から追われ野に下ったのであり、彼の侵略思想はいくら指摘してもし過ぎることは無い。

結果、薩長支配の政府憎しが基本動機の民権運動の中心は、政府と対決することそのものに終始し、政治主義的な性格を持った。自由というも、不満士族の不平を訴える自由としての言論の自由が中心で、庶民・農民の暮らしの改善や、不平等な経済システムへの抵抗思想もない。さらには、また、その政治思想においても立憲主義の真意が理解できず、運動目的を国会開設に特化し、自ら制憲主体とはなりえなかった。やがて、新聞条例や集会条例など山県のこれでもかの弾圧政策で鎮静化し、自由党は解散に追い込まれた。そして、国会開設が約束されるや、民権派諸党は準備政党となり、体制内政党へ向かった。

当然、軍拡・経済には警戒感ゼロ。帝国議会が開設されても、山県軍拡に批判もせず、農民の困窮と民権を連動できず、結果、秩父事件に見られるように、農民の小作化と寄生地主の横暴を傍観し、農民と共に闘う民権派は数えるほどであった。運動の見殺しである。

むしろ、日清戦争をあおり、三国干渉で遼東半島の支配権を奪われるや、旧民権派たちはこぞって政府を弱腰外交と批判し、街頭に出た。侵略戦争批判ではない。もっと戦果を獲得しろとの運動である。これ以降、旧民権派は、すべて愛国主義国粋主義と一体化し、平民主義者徳富蘇峰などは帝国主義者に完全に思想転向した。植木枝盛でさえ、日清戦争前の1882年京成事件では、日本国の朝鮮干渉を黙過し、清国の軍事干渉と攻撃を批判し、何もできない日本政府に歯ぎしりする精神構造であった『檄文』。これには、民権派の意識を海外に向けてくれたと山県は大いに喜んだと言う(松本)。

なお、植木は、天皇を尊敬し続けていた。「さればわが日本の天皇陛下が2500有余年来皇統連綿として万世一系にあらさせらるることは誰一人知らぬ曹も無けれども」(「議員内閣論」)「吾輩は大いに日本を愛する者なり、吾輩は大いに皇上を敬する者なり、吾輩は立憲政体を重んずる者なり」(「民主制君主制の語」)と、天皇崇拝・愛国主義を明言している。最左派とされる民権派の植木にしてこれである。彼らの「民権」というものが、国民主権とは大いにかけ離れ、所詮は天皇に授けられた臣民の恩寵的権利の域を出ることが無かったゆえんである。また、政府のあらゆる政策を下支えする天皇イデオロギー愛国主義を政府と共有する民権派が、明治政府を根底から倒し人民主権国家の樹立を目指すなど考えも及ばないこと明白である。

 

【参考文献】

松本清張『象徴の設計』

松本清張『小説東京帝国大学』上下

樋口陽一『自由と国家』

片山杜秀皇国史観

村上重良『国家神道

島薗進国家神道と日本人』

E・Hノーマン『日本における近代国家の独立』

色川大吉『近代国家の出発』

李玉燕「近代知識人の天皇観」(岩手大学大学院社会科学研究科紀要17号)