iwapenの日記

60歳にして考古学を学びに大学に入りました。また、社会や政治についても思いの丈を発信してます。

デモクラシーは衆愚政治。賢民にならないと政治は腐敗する。

そもそも民主主義、デモクラシーは、古代ギリシャ政治学では「愚民政治」のことである。実際、陶片投票(古代アテナイで、僭主の出現を防ぐために、市民が僭主になる恐れのある人物を投票により国外追放にした制度)では、「候補者の事は何も知らないが、皆が騒いでいて気に入らないので陶片を投じる」などといった濫用例が記されている。当然、しばしば政争の道具として使われて有能な政治家などが追放されることもあった。こうして、アテネは、衰退していったと言う見解もあるほどだ。
こうした政治腐敗を目の当たりにして、プラトンは、哲人王による賢人政治こそが政治の理想と考えた。ただし、古代ギリシャにおいて共通認識とされた正しい政治とは「法を守る政治」であり、逆に悪い政治は「法を守らない政治」である。
となれば、たとえ賢人であっても、「法を守らない政治」なら悪しき政治であり「僭主制」として批判された。それに対し、デモクラシーは、「法を守らない政治」の典型とされた。多数の力に乗じて、好き勝手なことをするに決まっているのがデモクラシーだと認識されていたのである。だから、デモクラシーは悪い政治とされた。しかし、同じ法を守らないなら、独裁の僭主制より、デモクラシーの方がましだという了解もあった。
つまり、デモクラシーとは、古代ギリシャ時代より、何も考えない愚民が流れに乗って投票する衆愚政治であること、そして多数者支配の力に乗じて権力者は法を守らない政治を行うと言うリスクを不可避的なものとしていたのである。
実際、その後の歴史を見ても、デモクラシーは、まさに愚民たちの投票によって、賢人が斥けられ、人気だけのナポレオン1世・3世、そしてヒトラーという独裁者を生み出してきた。さらに、デモクラシーは、常に権力の横暴・やりたい放題・腐敗を生み、法を守らない政治を蔓延させてきた。これは、現在日本の政治実態が物語る。
しかし、それでもデモクラシーだけが、多数の賢民による政治監視と政治参加を供給することができ、独裁と無法政治を克服してきた。そうした中で、近代立憲主義が生まれた。権力者に法を守らせ横暴を制御しなければならない。その権力者の横暴を制御する装置として生まれたのが憲法である。権力者に憲法を守らせるそれが立憲主義である。
しかし、それでも、国民・市民が愚民であれば、人気だけの政治家が権力を握り、そんな権力者は法を守らない悪政を行ってしまう、まさに衆愚政治となる。せっかくの憲法も、国民が愚民になり、国民による権力者監視と政治参加が弱ってくると、憲法も絵に描いた餅になり、立憲主義は崩壊する。現在日本がまさにそれだ。
とにかく、デモクラシーは、国民・市民が愚民では最悪の政治になるというのは、古代ギリシャから指摘されたて来たことである。国民・市民が賢民とならなければ、どうにもならないのである。
今回の都知事選、都民がいかに愚民に成り下がったかを示している。そして、それは、今後さらに都政の腐敗と都知事の横暴を招くことになるだろう。そのツケは、都民自身が払うことになる。366万人の投票は、歴史的な大罪になるのかもしれない。