iwapenの日記

60歳にして考古学を学びに大学に入りました。また、社会や政治についても思いの丈を発信してます。

「新しい生活様式」よりも大切な国家の責任

 

1.日本のコロナ「対策」を振り返って
根本的には、国民の命と暮らしを守るのは、国家の仕事である。ところが、日本国家は、ここ数十年、新自由主義に傾倒し、一切の経済的無駄を排除してきた。ただし、軍事費と米国追随費用だけは、聖域にして。新自由主義は、あらゆる事業に利益を生むか生まないかを基準に選択と集中を迫り、利益を生まない事業には金を回さないのであるが、とりわけ狙われたのが医療分野だ。医師も看護師も減らされ、病院も統廃合で総数を減らされた。そして、何より狙われたのがいつ来るかもわからない感染爆発への備えが不要・不急とされた。感染病床は、かつて約10万床あったのが、現在は2000床弱である。保健所も半減以下。何より、世界がSARS、MARSで様々な教訓を得て、PCR検査体制の拡大・最新化・迅速化を図る中、日本は20年前の機器を更新せず、検査技師も減らしてきた。加えて、いざというときの体制も考えてこなかった。実際、日本は当初、専門家会議も設置せず、安倍晋三の素人の独断で全国一斉休校をした。これも、学校なら休業補償が伴わないので安上がりだと考えたのだ。これも新自由主義的思考そのものである。

こうした状況下、コロナ禍を迎え、日本国家はようやく有効な対策を打つ武器が全く整っていないことに気づく。しかも東京オリンピックを控え、なんとしてもこの巨大利益を生む祭りを開催したかった。しかも、日本だけは安心ですとし、何億もの観客・観光客を呼びたかった。
そこで、考えられたのが、検査を絞ってクラスターだけを潰す戦略だ。これなら、せいぜい数十人から数百人のクラスター関係者だけ検査をしておけば良いし、加えて、これが日本のスタイルだと言い張れば、世界との検査数の格差の言い訳にも理論づけができる(実際、クラスター班のメンバーは事あるごとに検査を増やすことが弊害であるとさえ言ってきた)。さらに、半減された保健所縛りにすれば、検査は広がらない。しかし、このクラスター潰し戦略の結果、検査を受けられないために、コロナ感染患者が治療を受けられず重症化し、またコロナと無関係な疾病の患者も院内感染の恐れから入院治療を断られ、まるで前近代社会のように自宅や路上で死に行く人々が続出した。
こうした事態に慌てふためいた専門家会議・政府は、8割の外出自粛を提言した。これによって、クラスター潰しと言う日本独自のコロナ感染対策は、その担当者自身によって失敗が宣告されたのであった。実際、クラスター潰しは奏功せず、経路をたどれない感染者が8割に上るようになり、市中感染爆発は明白であった。しかし、笛吹けど踊らずで、国民の外出削減はせいぜい5割・6割留まりであった。そこで、政府に要請されたのか、マスコミは、一斉に江ノ島に群がるサーファーや、町中に徘徊する若者や、営業する居酒屋などの映像をこれでもかと繰り返し流し続けた。「こうした行動が感染を広げ、愛する人の命を奪うことになると考えてほしいですね」などというコメンテーターの言葉と共に。こうした報道を受けて、我が意を得たりと全国各地に自粛自警団が暗躍しだす。まずは警察への通報が激増する。そして、やがて嫌がらせの電話やビラ貼り、そして投石にまでエスカレートした。もはや犯罪行為である。しかし、不思議に警察は逮捕や立件を一例も出していない。リンチの黙認である。法治国家が崩壊したのである。こうなると、国民の意識は一気に変わる。コロナで死ぬ恐怖に加えて、自警団監視とリンチへの恐怖が相まって、外出自粛はゴールデンウイークには8割を達成するようになる。当然のことながら、家庭内感染や自宅死がさらに増えた。しかし、国民の命がけの自粛の強要で、感染者数は減少傾向にあるが、この間、日本国家は、アベノマスク以外、あるべき対策を何もしていないことを銘記すべきである。

 

2.感染症対策は何よりも国家の責務
ここまで述べてきた、日本のコロナ「対策」の経過を評価すべく、以下、そのあるべき対策について考えてみよう。
 コロナ感染爆発を防ぐには、第一に国家の対策、第二に国民の外出自粛が不可欠だ。しかし、何より、国家による積極的な対策が第一義的であり、21世紀の今日、それだけの科学技術と経済力を備えているのが近代国家である。ましてや、日頃から科学技術立国・経済大国と自負する日本では当然のことである。
 さて、感染爆発を防ぐ国家の対策は、WHOが何度も言うように検査と隔離である。この二つは両輪であり、いずれか一方が欠けても、対策にならない。隔離の無い検査は検査の無駄である。また、検査の無い隔離は単なる強制収容所づくりである。民主主義社会にあって、科学的客観的データに基づく行動規制だからこそ、国民は納得し自粛する。検査無き隔離は前近代的独裁国家の手法である。加えて、検査によって、効率的かつ院内感染をもたらさない医療行為が可能であり、それは、国民一人一人の命を守るための医療資源であることも忘れてはならない。検査は、疫学調査のために統計データをとることが目的ではないことも。

PCR検査
 まず、PCR検査は、人類史上、病原菌であるウィルスが検出できるという画期的な技術であり、感染症と闘う現代社会最高の武器である。これによって、感染者と非感染者が分離できるようになった。前近代社会ではこれができずに、症状のある者が出た村や町ごと強制隔離し、焼き払うか見殺しするしかなかった。しかし、今や同じ職場の者でも、検査によって感染者を明確に分離することができるのだ。こんな大きな武器を我々人類は持つことができた。この武器の力を最大限に発揮させることが国家の第一の責務である。検査機器の最新化・拡充と、検査スタッフの増員、加えていざというときに迅速に大量検査ができるシステム構築(ドライブスルー方式など)や訓練の日常化など、日頃から備えておくべきなのだ。

②隔離と医療資源の拡充
 次に、隔離は、PCR検査で判別した感染者をさらに無症状・軽症者・中等者・重症者とトリアージし、それぞれに合わせた隔離場所を確保しなければならない。ホテルの借り上げ、体育館のような施設の利用、競技用宿泊施設の利用が即座にできる法整備や契約関係の整備、そして感染病棟・病床の十分な拡充。人工呼吸器や集中治療室の確保、防護服やマスクや手袋の在庫確保、そして、医療スタッフの確保と訓練など、これらも国家の責務である。いつ来るかわかないから利益にならないとケチっていては国民の命を守ることはできない。いつあるか分からない戦争に備える軍事費と同じ発想である。否、戦争は、外交努力で防ぐことが十分にできるし、今日、圧倒的な国家間の問題は外交努力で解決しているので、軍事費は無用の長物ですらあるが、感染爆発はまったく予期できないものであり、常に十全に備えていなければならない。

③自粛とセットの休業補償
 そして、感染爆発を避けるには、国民の外出の自粛という協力が不可欠である。しかし、これも長引けば、生活の糧が断たれ命がけの自粛になる。そこで、必要なのが、休業補償である。コロナによる死を回避できても、経済的理由による死が続発するようでは、何のための自粛か意味をなさない。これこそどの国家でもできる緊急の対策である。国民は日頃、高い税金を納めている。その税金を、ここぞとばかりに国民に還元するタイミングがまさにこの休業補償である。ぐずぐずとケチるようでは、経済も崩壊するし命も守れない。アメリカでさえ、月50万円相当の支給をしている。これは、人によっては日頃の収入より多くなっているが、それに伴う問題より、当面の救済が大切と割り切っての支給である。8割貰えない30万円、いつまでたっても届かない10万円は、世界標準から見て、後進国並みであり、恥ずべき「対策」である。

 以上、こうした国家の責務としての対策を十全に行うという前提で、国民の外出自粛を呼び掛ける資格が国家に生じるのであって、逆ではない。

3.「3つのお願い」と「新しい生活様式」の意味
さて、長々と、当たり前のことを書いてきたが、現在の日本国家は、こうした国家としての責務を全く果たしておらず、ただひたすら国民の自粛と言う名の、自警団リンチも利用しての「強粛」を強いているだけであることが分かるだろう。検査体制も不十分、隔離・医療体制も不十分、休業補償もない。あるのは国民の命がけの自粛のみ。これでは、前近代国家のペストやコレラ対策と全く何も変わらないのである。お隣の韓国や中国や台湾や香港やシンガポールでもきちんと近代国家(行政府)としての責務を果たしている。もちろん日本もその仲間であるとされる先進諸国も各国家が肩をそろえて奮闘している。そんな中で、日本だけが突出して国家の責務を放棄して、命がけの自粛を国民に丸投げという、前近代社会状態を呈しているである。
それでも、今回、国民の命がけの自粛の強要で、なんとか第1波はひと段落を迎えそうである。しかし、検査体制も医療体制も隔離体制も整えていない日本国家の下、今後、さらなる感染爆発が到来したとき、日本社会は壊滅的な打撃を受けるだろう。

そうした状況を踏まえれば、安倍晋三の「国民への3つのお願い」も専門家会議の「新しい生活様式」の提言も、国家としての責務を今後も放棄し、引き続き国民の自助努力への丸投げを宣告したものだと理解すべきだ。また、今後の感染拡大は、こうした自助努力を怠った国民のせいであると言わんがための、安倍政権特有の言い訳・伏線でもある。またぞろ、国民の命と暮らしを危険に晒し、それを嘘とポエムで塗り固め、結果責任は負わないといういつものやり方である。このデジャブを日本国民は何回見せられることになるのだろうか。
みなさんは、覚えているだろうか。福島原発事故も、実は事故前の国会で安倍晋三が放った「福島原発は安全です」の嘘で始まったことを。そして、事故後は、安倍晋三の汚染水アンダーコントロールの嘘、食べて応援や復興五輪のポエムで、とうとう放射能拡散の問題も原発固有の核のゴミ問題も、そして原発ゼロの目標も無かったことにしてしまったことを。安倍晋三は、このままなら、自らやったコロナ禍以前の医療資源の削減も、コロナ感染爆発への無対策で多くの国民を見殺しにしたことも、無かったことにするだろう。自身の数多ある権力の私物化を嘘と隠蔽で無かったことにしてきたように。

 

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