iwapenの日記

60歳にして考古学を学びに大学に入りました。また、社会や政治についても思いの丈を発信してます。

デモクラシーは衆愚政治。賢民にならないと政治は腐敗する。

そもそも民主主義、デモクラシーは、古代ギリシャ政治学では「愚民政治」のことである。実際、陶片投票(古代アテナイで、僭主の出現を防ぐために、市民が僭主になる恐れのある人物を投票により国外追放にした制度)では、「候補者の事は何も知らないが、皆が騒いでいて気に入らないので陶片を投じる」などといった濫用例が記されている。当然、しばしば政争の道具として使われて有能な政治家などが追放されることもあった。こうして、アテネは、衰退していったと言う見解もあるほどだ。
こうした政治腐敗を目の当たりにして、プラトンは、哲人王による賢人政治こそが政治の理想と考えた。ただし、古代ギリシャにおいて共通認識とされた正しい政治とは「法を守る政治」であり、逆に悪い政治は「法を守らない政治」である。
となれば、たとえ賢人であっても、「法を守らない政治」なら悪しき政治であり「僭主制」として批判された。それに対し、デモクラシーは、「法を守らない政治」の典型とされた。多数の力に乗じて、好き勝手なことをするに決まっているのがデモクラシーだと認識されていたのである。だから、デモクラシーは悪い政治とされた。しかし、同じ法を守らないなら、独裁の僭主制より、デモクラシーの方がましだという了解もあった。
つまり、デモクラシーとは、古代ギリシャ時代より、何も考えない愚民が流れに乗って投票する衆愚政治であること、そして多数者支配の力に乗じて権力者は法を守らない政治を行うと言うリスクを不可避的なものとしていたのである。
実際、その後の歴史を見ても、デモクラシーは、まさに愚民たちの投票によって、賢人が斥けられ、人気だけのナポレオン1世・3世、そしてヒトラーという独裁者を生み出してきた。さらに、デモクラシーは、常に権力の横暴・やりたい放題・腐敗を生み、法を守らない政治を蔓延させてきた。これは、現在日本の政治実態が物語る。
しかし、それでもデモクラシーだけが、多数の賢民による政治監視と政治参加を供給することができ、独裁と無法政治を克服してきた。そうした中で、近代立憲主義が生まれた。権力者に法を守らせ横暴を制御しなければならない。その権力者の横暴を制御する装置として生まれたのが憲法である。権力者に憲法を守らせるそれが立憲主義である。
しかし、それでも、国民・市民が愚民であれば、人気だけの政治家が権力を握り、そんな権力者は法を守らない悪政を行ってしまう、まさに衆愚政治となる。せっかくの憲法も、国民が愚民になり、国民による権力者監視と政治参加が弱ってくると、憲法も絵に描いた餅になり、立憲主義は崩壊する。現在日本がまさにそれだ。
とにかく、デモクラシーは、国民・市民が愚民では最悪の政治になるというのは、古代ギリシャから指摘されたて来たことである。国民・市民が賢民とならなければ、どうにもならないのである。
今回の都知事選、都民がいかに愚民に成り下がったかを示している。そして、それは、今後さらに都政の腐敗と都知事の横暴を招くことになるだろう。そのツケは、都民自身が払うことになる。366万人の投票は、歴史的な大罪になるのかもしれない。
 

自分のアルゴリズムを構築しよう

私たちは、インターネットを「活用」する中で、AIに私たち人間の、とりわけ消費者としての嗜好、行動パターン、さらに思考様式までがハッキングされ、そのビッグデータを元にさまざまなアルゴニズムが構築されてきた。そして、今や、人間が、AIの持つアルゴリズムに釣られて、あるいは従って行動しつつある。

もともと人間は、複雑なことを考えているようで、実は自分の置かれた環境や立場に即して思考し行動する。特に置かれた立場に合わせて自分の行動や発言に自分で枠をはめてきた。本来なら、やるべきでないことでも、立場というものを言い訳に、簡単に不条理な行為に出てしまう。特に、管理職とかの経験者なら分かるだろう。まさにそれがアルゴリズムである。

これは立場の違う者から見たら、その人の言動は予測可能なステレオタイプ。時々、そのアルゴリズムからズレた言動をする人がいると、「おおっ!」と驚きの対象となる。と言っても、それもアルゴリズムで、想定されたその「意外性」を予め織り込んだ言動をする場合すらある。こんな劇のようなやり取りをやっているのが人間だ。それだけに、元来、人間の行動と思考は読みやすくパターンとして理解しやすい。つまり、簡単にそのアルゴリズムはプログラムとしてデジタル化可能だということだ。

それが、商品の消費を人生の圧倒的な活動の中心としてしまった現代人ならなおのこと、その思考と行動は類型化されている。だこらこそ、昨今の政治は、そうした人々の類型化された言動をアルゴリズムとして把握することで金儲けをしている広告代理店が、選挙戦略や政権戦略にコミットしてきたのだ。これが顕著になったのは小泉政権以来だろう。多くの人々のその思考と行動が単純なアルゴリズムに従っていることが分かってきた為に、どんなに酷い疑惑や失態を繰り返しても、どうすれば人々がそれを忘れ飽きていくのか見破られているのだ。安倍政権が長期化しているのはまさにその成果だ。

要するに国民主権など、今や絵に描いた餅になりつつある。主権は、企業と政権が握ってしまっているのだ。それも、私たちの思考と行動が類型化し、シンプルなアルゴリズムとなってしまっているからだ。しかも、そのアルゴリズムのコード自体が、企業や政治によってどんどん外から書き込まれている。加えて、同調圧力を自分たちで作り上げて、益々、思考と行動を単純化させている。

私たちに課せられた選択は、企業や政権にプログラムされてしまうのか、私たちが逆にそれらをプログラミングするかだ。後者の道を行くなら、「自分が決めた」とか、「これは自分の考えだ」とか、「自分の思いを大切にした」とか思ったときに、本当にそうか?何らかの外部化されたアルゴリズムに従ってパターン化した思考と行動を選択したのではないか?と疑ってみることだ。
また、いろんな人と話したり、誰かの書いたものを読んだとき、どこかで聞いたセリフだなとか、この発想よくあるとか、この言動は最近の流行り・傾向だなとか思ったことは無いだろうか。そうした視点で自他を見ることから始めよう。
それが、定型化されつつあるアルゴリズムからの脱却であり、自分のコードで自分のアルゴリズムを構築していく道だ。しかし、それは突拍子もない方法ではない。昔からある方法で十分だ。優れた本や論文を、斜め読みではなく熟読、つまり思考しながら読むことだ。さらに、論理的な批判と資料の検証ができ、自分なりの文章化ができれば、すでに自分のコードで思考のアルゴリズムを構築し始めていることになるだろう。


《私たちが、テクノロジーが生み出す気を散らす泡の中で行動するとき、そしてソーシャルメディアフィードが、自分と同様の考えを持つ人で構成されているとき、社会が変わることは期待できるのだろうか?起きることと言えば、アルゴリズムが私たちに促すように、結局行動してしまうことだ。これを打ち破るには現状に疑問を呈し、事実を分析して、自分自身の結論に達することが必要だ。しかし、そうしたことに割ける時間を持つものはいない。こうして私たちはFacebookマシンの歯車と化し、プロパガンダの影響を受け、おめでたいことに働いているアルゴリズムを意識することもない ―― そしてそれは私たちの思考プロセスの中に組み込まれているのだ。

自分自身の意志決定に対するプログラマーやアーキテクトではなく、アルゴリズムのユーザーとしての私たちは、自分自身の知性を人工的なものにしてしまう。Douglas Rushkoffが言っているようにこれは「プログラムするのかそれともプログラミングされるのか」の問題なのだ。もしケンブリッジ・アナリティカの事件と2016年の米国選挙から学んだものがあるとすれば、世論をリバース・エンジニアリングにかけて、結果に影響を与え、そしてデータ、ターゲット、そしてボットが誤った合意の感覚に導く世界を作り出すことは、驚くほど簡単だということだ。》

jp.techcrunch.com

日本政治の根幹、それは嘘

東京五輪、「中止回避を最優先」をベースに簡素化や、観客削減や式典縮小を検討するとのこと。しかし、この「中止回避を最優先」という姿勢が一番怖い。
しかし、この「中止回避を最優先」という姿勢が一番怖い。

日本は、平気で嘘をつく国。目的のためには、ましてやそれが大義名分となれば、お国の為に夷敵を欺くことなど善行とさえ見なされる文化。ましてや、安倍晋三を中心とした日本政府は、ずっと嘘で国民を欺く政治をモットーにしてきた政権。そもそも五輪誘致の際も、福島原発事故の後、放射能の拡散はだんまりを決め込み、目に見えて増える汚染水については誤魔化しようがなく、そこで思いついた嘘が「アンダーコントロール」だった。
しかし、今日に至るまで汚染水はまったくアンダーコントロール状態ではない。むしろ、どうにもしようがなくなって、いよいよ海洋投棄に向けて言い訳を考えている所である。きっと、来年、五輪開催至上主義の大義名分のもと、日本政府は必ず嘘をつくだろう。そして、日本国民もそれを嘘と知りつつ、日本の為にと盛り上がりを見せるだろう。この国に、誠実さという文化は支配的ではない。

思えば、第二次大戦も、国際的にも国内的にも嘘で塗り固めた戦争だった。日清・日露戦争も、本音は朝鮮半島の植民地化と中国北部の利権獲得だった。なのに、戦争の「目的」は中国の封建的属国であった朝鮮の独立とか、ロシアの南下の脅威から大韓帝国を守るだとか、嘘であった。
そもそも明治維新も、薩長両藩が主導するクーデターであり、大久保や西郷ら一部の武士による権力簒奪とは当時からの批判であった。明治天皇を皇居に入れたのも、それは東京遷都に伴う行幸という嘘を既成事実化し、明治政府の権威付けのためだった。天皇元首化とか吹聴する日本会議がこうした明治政府の不敬罪的暴挙を知りつつ無視するのも、日本的「嘘」文化の典型だ。

戦後の政治も、嘘そのものだ。憲法では戦力不保持をうたい、戦争放棄の意志を決然と示しておきながら、日米安保条約で米軍を駐留させ他国への軍事的脅威とし、さらに明らかな軍隊である自衛隊を設立・拡大し、ついには海外派兵に集団的自衛権まで容認し、違憲状態を推進してきた。これこそ、国際的・国内的な歴史的大嘘である。そもそも自国領土に外国軍を駐留させ、領土ばかりか再重要の都市制空権も奪われ、つまり米国から喉元にナイフを突きつけられた状態で独立国家でございとは、世界中周知の「嘘」そのものだ。

したがって、この国は、国家の大本が嘘で塗り固められている。だから、日常的な国民への嘘などは、大したことは無いのだ。モリカケも、サクラも、全部嘘と嘘隠しの公文書改竄・ねつ造で乗り切るまで。権力者は、国民を上手にだます。それが政治だと心得ている。

この国で誠実さを貫こうとすると、必ず権力と抵触する。下手をすると潰される。大企業でも零細な工場でも、正義など消えているので、たとえそれが嘘でも上司の言うことが絶対で、どんな理不尽な命令でも従うしかない。まともな権利を主張しただけで、いじめられ、JRやパナソニックでも行われた北朝鮮ばりの「再教育」が強制される。

学校現場でも同じだ。教育委員会と管理職が平気で嘘をつき、理不尽極まりない指示・命令を出す。教員はその支配に馴化され、物言わぬヒラメとして生きる。正当な主張をすれば、人事で報復される。当然、そんな世界では、正義は歪められ、教員間にも子供間にもいじめが無くなるはずがない。

この国の腐り元凶は、誠実を抑え込む「嘘」だ。

カミュの『ペスト』より

カミュは、『ペスト』で、次のように述べている。

「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」

一見、えっ?という言葉だが、じっくり考えればこの言葉の重みが見えてくる。

例えば、最も誠実であって欲しい人は誰だろう。国のリーダーとしての総理大臣であり、今般なら厚労相であり、各自治体の長である。

まず、総理安倍晋三はどうか。どれだけコロナから国民を守る為に誠実に働いているだろうか。彼がやったことは、まだどの学校でも子供が感染していない時期の全校一斉休校と、コロナに効果のない布製アベノマスク2枚配布。しかも、いまだに届かない。そして、犬を抱いてコーヒーを飲みながらまったりする動画の配信。全てがパフォーマンスなのだ。しかも滑ってしまった。8割以上の国民が貰えない30万円支給も、額面の大きさだけのパフォーマンス。国民を救う視点無しだ。かたや、一番頑張ったのが、コロナより自己保身の黒川人事。コロナ禍以前から、防衛費だけを突出させ、感染病棟・病床を削り、保健所も施設・人員共に削り、生活保護や介護や年金など国民の命と暮らしを支える行政を尽く破壊してきた。かたや、モリカケやサクラ問題では権力の私物化、お友達への利権のばらまきを、公文書の改竄・捏造・廃棄などを駆使して、やりたい放題。
まさに誠実さとは真逆の嘘の塗り重ねをやってきた。

安倍晋三ポチ加藤厚労相は、全国的に徹底されていた発症4日目以降という検査条件を、自らの責任で多くの人を殺したのに、国民の誤解だと言い抜けた。また、たった2万件の検査すら、そこまでやるとは言っていないと、嘯いた。国民を助けるのでは無く、国民を欺くことしか考えていない。

自治体の長はどうか。大阪と東京はやたらにテレビに出て、半ばヒーロー扱い。
しかし、これもカミュが述べているように、病原菌との戦いは「ヒロイズムなどという問題じゃない」。
むしろ、ヒロイズムこそ戦いの阻害となる。医療現場はギリギリなのだ。それも、大阪も東京も、ヒーロー扱いを受けるその同じ知事が、公的な医療を徹底的に削減してきたからだ。公共交通も国民年金も介護も値上げとサービス低下で、社会的弱者の暮らしを直撃してきた。反対に、カジノとか、万博とかオリンピックとか、まさに不要不急の儲かるイベントに全力をあげてきた連中だ。ヒロイズムのパフォーマンスは、彼らの選挙戦略という底意に過ぎず、市民の命は二の次。だから、検査を絞り都府民の感染を爆発させた。その罪は大きい。しかし、ヒーローなので彼らへの批判は抑えられてしまっている。
ましてや、自粛を呼びかける一方で補償をせず、悲鳴を上げる飲食やサービス業など名指しで攻撃したり、「夜の街」などとまるで犯罪者扱い。一体、何を守ろうとしているのだろうか。

このように見ていけば、日本は、ほとほと誠実さの欠落した政治家ばかりであることがわかる。国民主権とか、住民自治とかの人類史的価値観は言葉としては言及するが、本音は権力者ファーストで、選挙でうまく国民を騙し権力さえ取れば、国民や市民の為の政治など露ほども考えていない。そんな本心がコロナ禍で明瞭に見えている。

カミュが、誠実さが唯一の方法だと言った意味は深い。

貧困問題 要修正

かつて中流社会と言われましたが、構造改革によって非正規雇用が4割にも達しています。今、日本の平均所得は440万円ほどでこれでもかなり下がりましたが、より庶民に近いのは中央値で、それは350万円。しかも非正規雇用の年収中央値は150~160万円。ほぼボーナスは無いので、月収は約13万円。社会保険や税金を引いた手取りは、10~11万円ほどです。
こういう人が働く労働者の4割なんです。そこへ、女性は、正規雇用でも中央値は、280万円ほど。しかも、頭打ちです。非正規雇用となるとさらに下がります。
年収500万円以上なんて、公務員か大企業正規労働者です。
零細の自営業者、とりわけタクシー運転手など、年収200万円前後まで落ちてます。もう、働く人の5〜6割は食べて行くのがやっとです。現職教員などは、もはや中流じゃあありません。さらに、無年金者や国民年金受給者は、かつかつですね。これも、今70歳を超える厚生年金とか、共済年金の方は、労働者の中央値を超えてますから、羨望の眼差しです。
ただし、日本は、下に向かう圧力はあってもともに上に向かう連帯は希薄です。80年代の戦闘的組合潰しと連合への糾合が、その力を削ぎ落としました。
市民運動も、僕らの若い頃と比べると、未だに年寄りが中心にいます。どの組織も同じです。若い世代の社会意識は、絶望的ですらあります。日常的にもふざけあいはあっても助け合いは極めて弱い。
現在の政治状況はそうしたことの必然です。
でも、世の中は変わります。僕の目の暗いうちかは分かりませんが、どこかで構造的変化が起こるでしょうね。あの東欧が、ベルリンの壁を壊したなんて、凄い変化でした。

 

 

私たちの子どものころの価格と比べたらダメです。
価格は相対的な数値です。今、贅沢はしないけど落ち着いて暮らすには年収400万円がボーダーです。300万円は、もはや子供を大学なんて行かせられません。250万となると、旅行も娯楽も不可能。
はっきり言って、僕たちかつての教職員は、経済的には社会の上層です。だから、貧困というものが、分からないんです。多くの先生が、子供の実態が見えないのもそうした社会的視点が差ないからです。
ましてや、夫婦で公務労働の正規雇用なんて、労働貴族レベルです。
それくらい、日本の労働者の生活は逼迫してます。僕の示した数値で読み取ってもらえないのは残念です。タクシー運転手なんかは、かつて年収600万円以上でした。それが、生活保護支給額より下がってます。全て構造改革で、タクシー事業に自由参入できるようにしたからです。
正規雇用が4割にも達しているのも、政策誘導です。
学校も非常勤講師の方に支えられてます。同じ担任業務をしてるのに、実質、月収20万円もありません。その苦しさは、理解すべきです。
かつてバブル崩壊後、就職氷河期で、どんだけ優秀な若者でも就職がなく、彼らは今45歳前後です。今、発掘現場にも1人来てますが、僕と同じ日当8500円のバイトです。経営工学を学び、測量技能も正規職員より優秀ですが、新卒就職ができないだけで、月収12万円ほどです。そんな若者?がゴロゴロしてます。
かつて、人口流動化政策で農村から、中学卒で集団就職したのも政策誘導です。
個人の労働者の判断ではありません。そして、そうした政策誘導で、圧倒的な人が貧しい生活を強いられているのが日本です。
見た目は、今日的な家財道具やスマホなどの商品を購入してますが、例えば非正規雇用労働者にとってスマホは、それをなくしたら次の仕事が得られないというアイテムになってるので、路上生活者も持ってたりします。だからって、豊かではありません!
物溢れて、暮らしボロボロです。コンビニが我が家の冷蔵庫という子供はどんどん増えてます。決して豊かな話ではありません。子供の貧困は、朝から晩まで働き詰めの親、トリプルワークまでしてる親の中で、ネグレクトとかで出てきます。
しかし、その経済的境界線は、年収400万円に届かない人達に集中してます。
教員も忙しくしてますが経済的動機ではありません。
教師は、働き方の問題。低所得労働者は、所得問題で長時間働いてます。もしくは、働く機会がなく、低所得です。
昨今の、SNSの誹謗中傷や、政権寄りのネトウヨとかの暗躍なども、昔からある低所得者層による憂さ晴らしであり、寄らば大樹の陰心理です。
戦争があれば世の中がガラガラポンで、チャンスが増える話も、まさに貧困社会の典型意識です。大昔からある貧困者の発想です。19世紀以来.格差社会に必ず現れる意識です。
資本主義は、一部の者が大儲けする為に、多数の労働者などが貧困に喘ぐシステムです。これは、世界中の現在と歴史が示す事実です。
個々の人々の意識を超えて、システムの問題です。
ベルリンの壁崩壊以降、マルクス社会主義が全否定されました。しかし、2000年代に入り、全世界的に日本でも貧困問題が露見し、マルクスなど社会問題に取り組む理論書やルポや小説が読まれてます。
つまり、厳然とした資本主義搾取に基づく貧困が無くなっていないということです。アメリカでも、サンダースらが出てきた背景は持たざるものとか持てるものとの階級分裂です。
いまは、マルクス主義とか関係なく、多くの優秀な社会科学系の学者なら、貧困問題のは解決を訴えてます。ある意味、豊かな先進国で、貧困問題をかしっかりと見つめている学者と、見えていない学者は、それ自体、社会の矛盾の現れでもあります。ジョセフ・E・スティグリッツやトマ・ピケティなどは、そうした貧困を人類史的に位置づける学者です。
彼らのほとんどは、今日の政権担当者が、特定の裕福な階層・階級の出自で、資本家との連携も甚だしく、腐敗していることを指摘します。それが、貧困問題解決のブレーキになっていることも理解しています。だからといって、選択肢は、かつての社会主義とか共産主義とかではありません。
民主的選挙で解決するというものです。貧困問題、それを政権転覆で転換するという発想は、日本は、ショボイですが、国際的には良識ある人たちの共通認識です。また、実際に、オルタナティブ、新しい政治、オキュパイ運動など、様々な運動も起きています。日本だけ蚊帳の外ですが。
その意味で大きなポジティブな展望があります。
目を世界に転じれば、日本のような閉ざされた社会が変革された事例もたくさんあります。
分析は悲観的に、でも、展望は楽観的に、というのは昔から言われますが、視野を広げろと言う意味だと了解してます。
日本国内のテレビや新聞や雑誌だけ見てると、展望まで悲観的になりますが、日本のとりわけ社会科学系や人文科学系の学者で外に出てくる人が低レベルすぎるのと、やはり政権与党とのつながりで意図的にそうした人が多用されてきた歴史もあります。これも、欧米社会では、異常視されてる現象ですね。
安倍晋三とべったりの山口敬之なんかの安倍本は、論理的にも事実としてもデタラメで、見苦しい限りですが、安倍晋三を褒めそやすことで特権階層に入って、レイプ犯なのに逮捕を免れてます。
まさに、権力者とマスコミと御用学者と、さらに専門家との癒着は開発独裁国家によくあるパターンです。
これも、大きくは資本主義的貧困問題の結果です。
コロナでこうした問題は大きく露見してます。今こそ、時間もあるので学びを強めるときです。実際、検察庁法案を廃案に追い込んだのも、これまで忙しかった労働者が学んで疑問を持ち、さらに抗議の声を上げたからです。
社会は変わります。
散漫な文章、すみません。

コロナは発症前こそ最大の感染力がある。

新型コロナウィルス、発症してからの検査は無意味か。
台湾での研究から、以下のことがわかった。
《 二次感染した22人のうち、10人は患者に症状が出る前の接触歴があり、9人は症状が出た日から3日以内、3人は4日目あるいは5日目だった。すなわち、発熱やせきなどの症状が表れてから6日目以降に接触しても、感染することはなかったのだ》

❶つまり、コロナは感染後、一番感染力があるのは、発症前と発症後3日以内で、86%の人がこの間に二次感染している。逆に、発症4日目以降は、感染力はがくんと落ちるということだ。

ところが、日本政府は、加藤厚労省が責任逃れで国民の誤解だと言い逃れしたが、現実にPCR検査を受けるのは発熱後4日目以降としてきた。
しかし、その発症後4日目までこそ、ウィルスの感染力が強く、この期間に二次感染が起きるということなのだ!

つまり、日本政府の発症後4日目以降というPCR検査基準こそが、感染爆発を招いた原因だったと言えよう。
この基準を作った専門家会議・厚労省医官ポンコツぶりが見事に証明されてしまったのだ!

❷また、台湾の研究報告から言えることは、今後は、昨日書いたように、最も感染力の強い、しかも感染者の8割以上を占める「無症状感染者」を、何としても見つけ出す努力が必要だということである。
やはり、国民集団検査体制を今のうちに作るべきだろう。1日100万人レベルの検査体制構築だ。

①発熱1日目の検査は、本人の命を救う為。
②無症状感染者を見つける集団検査は社会の為。
これを、日本政府が、有り金をはたいて有りったけの知恵を絞ってやるべきだ。と言っても、1日100万人検査は、欧米がまもなく到達するレベル。日本にできないはずはない。

まずは、2万件などとケチなことは言わずに、欧米並みに10万・20万人の検査体制を作るのは、日本の経済力なら即刻できるはずだ。それなら、2・3兆円規模の追加予算でできる。しかも、今回の自粛による経済損失は25兆円規模とされ、この閉じこもり戦略の損失がたった数兆円で無くせるとしたら、経済的にも効率の高い話だ。

昨日も書いたが、集団検査体制は、国民の命と経済を共に救う対策であり、その構築は政府の責任なのだ。

 

https://www.asahi.com/amp/articles/ASN5G5SFNN5GULBJ013.html

おすすめ図書 ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』

おすすめ図書
ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』

コロナ禍での自粛生活にもそろそろ疲れが出てきた頃だろう。私は、コロナ禍以前より、日々、考古資料や書籍に埋もれて仙人のような生活をしているが、さすがに大学もオンライン、図書館も閉館、各地の考古資料館や博物館も閉館、考古関係の研究会も無期限延期となれば、時間が余ってくる。外出と言えば、愛犬の散歩と買い物程度(最近発掘が再開した)で、考古学以外の書籍もよく読むようになった。前回、『銃・病原菌・鉄』を読み切り紹介したが、今回は、それに勝るとも劣らない大著『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ)を紹介する。この長いトンネルで、孤独を楽しむにはもってこいの骨太の本だ。

まずは、概略。
アフリカで暮らしていた、「取るに足りない生物」であったホモ・サピエンスは、なぜ食物連鎖の頂点に立ち、文明を打ち立て、地球を支配するまでに至ったのだろうか?
 本書では、その鍵がホモ・サピエンスの「虚構」を信じる能力にあるとする。国家、宗教、企業、貨幣、法律、自由など、私たちが疑いもなく信じている概念は、みなすべて実体のない虚構だ。虚構は見知らぬ者同士が協力することを可能にし、複雑で高度な社会をもたらしたのである。
 近代に至って文明が爆発的な進歩を遂げたのはなぜか? それは帝国に支援された科学技術の進歩にともなって、「未来はより豊かになる」という、将来への信頼が生まれ、投資を加速させる「拡大するパイ」という資本主義の魔法をもたらしたからだ。
 では、サピエンスが打ち立てた文明は、個々の人間を幸福にしたのだろうか? 歴史は正義と無関係に進む。農耕社会は狩猟採集生活よりも厳しい生活を人類に強いた。文明は男女格差や人種差別をもたらし、国家や市場は個人の自立と引き換えに家族やコミュニティを破壊してしまった。現代人は飽くなき消費主義という欲望の奴隷となっている。
 そして今、ホモ・サピエンスは何を望み、どこへ向かおうとしているのだろうか? テクノロジーはあなたをどのような世界に連れて行くのだろうか? ホモ・サピエンスの過去、現在、未来を俯瞰するかつてないスケールの大著、人類史全体を俯瞰することで、現代社会を鋭くえぐる大作だ。

 私の興味より。
やはり考古学をやっている者としては、古代の歴史に興味が行く。『銃・病原菌・鉄』では、なぜヨーロッパ人が世界を征服し今もなお先進国でいられるのかという問いに始まった。そして、ダイアモンド氏の答えは、ユーラシア大陸では、植物と動物の多様性と栽培化・家畜化に最適な種が集中的に存在し、それによって定住と人口増加をいち早く勝ち取り、その後も安定的に国家を形成し、文字や製鉄や武器を発明し、その力で、栽培化・家畜化に不利だったアメリカ大陸・アフリカ大陸・オーストラリア大陸を支配することができたということだった。なお、同じユーラシア大陸にあって同じように栽培化・家畜化の条件に恵まれ、実際、帝国を築いた中国が、なぜ世界支配ができなかったのかというと、それは、ヨーロッパでは小さな国々同士の淘汰圧力によって武器や国家機関等の近代化をいち早く成し遂げたのに対し、中国はずっと一つの統一王朝を築いてきたことで淘汰圧力に晒されず近代化に後れを取り、アヘン戦争でその実力を見限られてからは一気に植民地化されてしまったということであった。
さて、このあたり、ハラリ氏は、また違った考察である。
ダイアモンド氏にあっては、その後のヨーロッパ人成功の鍵となった農耕社会への移行は、ハラリ氏によれば、人類にとってけっして勝利でも幸福でもないどころか、むしろ過酷な暮らしへの移行であった。それは人類が栽培化した小麦の立場から考えると分かりやすい。一言で言えば、小麦こそが人間を家畜化したのだった。小麦栽培のために人類が岩や石をどけて土地を耕し、灌漑設備を作り水を絶やさぬようにするが、それは柔らかい土地とたっぷりの水を好む小麦にとってまるで従僕による奉仕である。おまけに小麦の敵であるその他の植物の除草までし、土地に栄養が無くなると堆肥などで栄養を与えてくれる。これらの小麦の世話の為に、人類は来る日も来る日もへとへとになって働いていたのである。もちろん、人類が自分の為にやっているのだが、この人類の過酷労働によって、小麦はその後あっという間に世界中の土地を支配し、植物界の王者に君臨することになった。しかも人類は、狩猟採集生活では、各地の多種多様な動植物を食し栄養バランスもとれていたが、小麦偏重の暮らしで、ビタミン不足にともなう病気や不作による飢餓も味わうことになる。もちろん、アジアの米もおなじである。なるほど、農耕革命は人類にとって何一つ良いことが無かったようだ。
さて、ヨーロッパの成功についても、ハラリ氏の説明は大きく異なる。中国やイスラムの帝国は、相当の技術や知識を持ち合わせていた。むしろ、ヨーロッパは小さな国々がせめぎ合い、軍事力も含めアジアの帝国に勝てる相手ではなかった。しかし、15世紀、ヨーロッパには大きな意識革命が起きていた。それは、知らない世界を知りたい、という衝動・想像力である。そして、それがコロンブスやマゼランらの大航海をもたらし、結果、まずはスペインが南アメリカ大陸のアステカ・インカ帝国を滅ぼして巨大な富を独占し、大帝国へと発展した。これが、ヨーロッパ諸国の刺激となり、我も我もと帝国主義・植民地時代へと駆り立てていったのである。中国でも、鄭和と言う大将軍が、コロンブスより早くてインド洋から東アフリカへ大航海を成功させている。しかも、3千隻・3万人もの大船団である。中国の方が巨大な国力と航海能力を持っていたのである。しかし、鄭和船団は、訪れた土地や人々を支配することも無く、何ら富を得ることも無く帰っていった。その後、中国は航海にも海外の国々にもまったく興味を持たず、そのまま航海能力も低下させてしまったという。要するに、ハラリ氏は、人類の想像力が歴史を作る原動力となってきたというのである。この想像力が、貨幣・信用・帝国・資本などを生み出し、今日、人類の繁栄に至っていると言う
また、資本主義・自由市場の害悪として、奴隷貿易の例が挙げられている。だれもアフリカ黒人を憎んで奴隷にしたのではなく、新大陸の原住民が西欧人の植民地支配下の過酷労働で激減し、その代わりによりヨーロッパに近くて安い労働力として黒人どれが選ばれたこと、さらに、黒人奴隷は、直接に奴隷を捕まえて販売する商人だけでなく、その会社に投資して大儲けする資産家や市民によって、つまり自由市場の論理で安定供給・拡大されていったことが活写されている。資本主義とりわけ自由市場主義の本質がよく見えてくる一節であった。
逆に、資本主義経済のグローバル化が戦争を抑える作用をしていると言う。現代は、戦争で得られる利益よりも代償が大きすぎて採算に合わないこと、むしろ平和による利益が大きいこと、さらに国際関係の緊密化で各国の独立性が弱まっていることから「平和を愛するエリート」が各国を治めているとし、戦争が起きにくい時代に突入してきたと言う。
さらに、人類の想像力によって、それがハラリ氏の言う「虚構」であるとしても、現代社会は、自由や平等、人権の概念がより強く受け入れられることで差別や搾取が減って来ているという人類の前進面も分かりやすい。

さて、これら以外にも、興味ある論点は多数あるが、書き出すときりがないので、ここで止めておく。あとは、直接、本書を手にとって、じっくりと読んでいただきたい。
  

 

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